照雲寺の沿革について

開基

設備イメージ

 天文12年(1543年)、本願寺証如上人の時代に、初代住職 信西が本願寺より御本尊・御六字名号をお迎えし、大分県中津市に開基されました。寛文12年(1670年)第4世住職 慶誓の時に現在の地に本堂が再建立が為され、以来現在の住職 智譲で15世となります。申すまでも無くこの歴史は、この蛎瀬の地を中心として多くの御門徒様が寺門を支え、お念仏を喜ぶ御縁を共にしてくれました事によるものです。
 照雲寺の寺史に於いて、仏教、殊に浄土真宗のみ教えを学問として学ぶ学寮「信昌閣」が境内地内に置かれていたことは、大変大きな功績でありました。この『信昌閣』からは、浄土真宗本願寺派の学問僧育成の場としても有力な寺院でありました。

第11世 労謙院釋善譲(勧学)

お食事イメージ

 文政10年(1827)年、第11世住職 善譲により、照雲寺境内地の整備が為され、学寮「信昌閣」が開校されました。
 当時、中津をはじめとした当時の豊前地域には、既に僧侶育成の為の学寮が幾つもあり、多くの学僧が全国から集まってきていました。そうした環境により御門徒も熱心な同行が多く、「豊前門徒」と呼ばれるほどの地域でありました。
 その化風の中で阿弥陀様のお育てを授かった善譲は、大阪堺の性海師を師事し、その私塾にて宗学の研鑽に勤め、性海師から私塾後継を託されて、多くの性海師のお弟子方と共に豊前中津の地に戻り「信昌閣」を開きました。

空華学寮「信昌閣」と照雲寺

ご入浴イメージ

 「信昌閣」は所在は豊前中津ですが、学派は堺性海師を師としますので堺空華という学派の流れを汲んでいました。豊前地域の主流は豊前学派と呼ばれる学派であり、ここに学派が異なる堺空華の学寮が出来、またこれによって大阪や兵庫の学僧が来たことで、学派間の議論がそれまでにも増して当地で大変盛んになり、結果として豊前中津の地域から、多くの著名な学僧が輩出されることとなりました。「信昌閣」からも、第11世 善譲、第12世 善海の他、志津里得隣和上、荻生瑞智和上、伊井智量和上、前田慧雲和上、服部範嶺和上、大沼善隆和上など勧学和上を15名輩出し、その他にも本願寺執行長や龍谷大学理事長・学長といった人材も輩出しました。

 大正10年、御本山の学林「仏教大学」が大学制度改革の関係で「龍谷大学」となり、その理事を第12世 善海が務めることとなり、浄土真宗の学問の中心が京都に集結した事も相まって、学寮「信昌閣」はその役目を終えました。
 しかしながら、今でもその化風は強く残っており、住職一家は勿論の事、当山の御門徒さま方も浄土真宗の伝統をとても大切にしています。また、年に一~二度、有縁の学僧方と共に浄土真宗の教学を研鑽する「信昌閣講座」を開講し、学びの場としての照雲寺が疎かにならないように努めております。

現在の本堂と書院造りの客殿は、信昌閣時代のまま護持されております。